追悼マラドーナ。「神の手」に想う判定の曖昧さ
こんにちは。
25日、サッカー界のレジェンド、ディエゴ・マラドーナ氏が亡くなりました。
海外サッカーは好きでよく観ているのですが、マラドーナをリアルタイムで体験できたのは1994年のアメリカワールドカップ。
残念ながら、禁止薬物使用で大会途中で姿を消してしまうわけですが、ギリシャ戦でみせた連続ワンタッチからの左脚一閃。
そしてゴール直後、カメラに向かって吠えながら駆け寄ったあのシーン。当時、多感な中学生だった私にはビンビン刺さるものがありました。
そんなマラドーナの有名なシーンの一つとして語られているのが、1986年メキシコワールドの「神の手」ゴール。
あきらかにハンドに見えるのに、当時の主審が見逃し、そのままゴールの判定になったのはあまりにも有名。
でも、もし現代ならどうだろう?
同じように主審が見逃したとしても、いまはVAR(ビデオアシスタントレフェリー)によって映像管理されているため、主審は再確認の機会を得ることができます。
そして九分九厘、
「神の手」は存在しなかった
ことになるはずです。
試合の公平性を保つ一方で、このような形の「伝説」はもうみられなくなるという、なんとも言えない寂しさみたいのを感じるのは歳のせいか?
このような「審判の進化」はF1においても同じで、最近すっかりお馴染みとなったトラックリミテッド。
コースレイアウトの「公平性」を保つためのルールなのですが、興味深いことにドライバー達には不評みたいです。
なんでもシロクロはっきりさせる「公平性」を得た引換えに、人間臭い面白味ある「曖昧さ」が失われつつあるのは仕方がないことでしょうか?
曖昧さの一例。
このプロストのスタート、
フライングか?否か?
当時の判定が「シロ」だから面白いのだ。
あとから「あーだ、こーだ」と言える。
マラドーナの「神の手」と同じ。
皆が評論家になれる特別な時間なのだ。
じつにナンセンスと思われるだろうが、当時はこのような楽しみ方もあったのだと、マラドーナの訃報を聞きスマホを手に取った次第です。
乱文失礼しました。